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今夏4回目のプラネタリウム。
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16世紀から17世紀初頭にかけて、地動説が登場しましたが 実は最初ローマ教会は意外に寛容でした。地動説を述べたからといってそれで処刑されるようなことはありませんでした。 ローマ教会が地動説に強硬になるのは宗教戦争による社会情勢が変化して放置すると教会の権威が揺らぐと考えを変えたからです。 コペルニクスは現在のポーランド生まれでローマから遠くにいたのも幸いしたようですが、彼自身は1543年に「天球の回転について」という書物を出版したのは死の直前でした。しかも序文にオジアンダーという人物が「これは地球が本当に動いているのではなくあくまでこうやると計算が楽だ」というような意味の文章を書いていましたから、コペルニクス自身が本当に地動説を信じていなかったのではないか というような疑問を持たれたくらいです。 とはいえコペルニクス自身は1510年頃には「コメンタリオルス」という書物(回覧板のようなもので手紙を添えて回し読みしました)で地動説を唱えていましたから、当時の知識人は地動説についてある程度知っていたようです。 コペルニクスは教会の弾圧が怖くて出版を見送っていたのではなく、変人だと思われるのが怖かったというのが真相です。それでも死ぬ間際に出版できて、そこに勝手にオジアンダーが序文を書いたものですからかなりショックで死期を早めたとされています。オジアンダーが保身のため(変な書物の序文を頼まれ断り切れずに書いたので言い訳じみています)コペルニクスの本意を無視したのは後にケプラーが証明して名誉回復しています。
ガリレオが地動説を唱えても当初はあまり問題にされませんでした。ガリレオは宗教裁判に2回かけられています。1回目は「あんまり人の悪口を書いて怨まれないよう」という程度の注意ですんでいます。 ガリレオは後のローマ教皇の家庭教師をしたこともあり尊敬を集めていました、しかし徐々に尊大になり自説を認めない者や無関心な者に対して「白痴」「馬鹿」といった悪口を書き連ねることで、周囲から浮き上がっていたようです。そのため天動説の学者からねたまれ反撃のチャンスを狙われていました。 自分の書物「新天文対話」で3人の人間を登場させていますが、登場する無能な人物がローマ教皇のことだと言いがかりを付けられ、聖書に反することを言っているとされ、さすがのローマ教皇も彼をかばえなくなりました。またプロテスタント台頭によるローマ教皇の権威を示すためにも有罪にされたのです。ガリレオは非を認めたため自宅軟禁ですみました。(「それでも地球は動く」と言ったのは後世の作り話です・・言ったかもしれませんが記録にはありません。
歴史は捏造される。
まる子ちゃんの中で
「不思議を不思議のまま
おいておかずに、とことん
追究しよう!」
と、あったのはうなずける。
で、(軽く)調べたのが、
上記のものだ。
「なんでだ」
大事だと思う。
「結果」のみ見て
「なんでやねん!」
とはならず、
「なぜ、こうなのか?」
を、考えたい。
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